姉川の合戦跡
歴史レポート

2011/01/15
●先週(1/9)から新しいNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」が始まりました。

  今回の大河ドラマは「浅井三姉妹」の物語です。浅井三姉妹は、滋賀県長浜市(旧湖北町)で生まれました。私と同じふる里です。
  正確に言うと「湖北町」は朝日・速水・小谷の3つの地区に分けられます。浅井三姉妹が生まれたところは、「小谷城」ですから「小谷」で
  私が生まれたところは「速水」ですからほんの少しだけ離れています。

  浅井三姉妹の父は皆さんがご存知の通り「浅井長政」(*注)です。 *注(「あざいながまさ」と読みます。「あさい」では無く「あざい」です。)
  滋賀県北部(近江北部)を治めた地元ゆかりの武将で、領民に愛された武将ですから地元の人にとっては今でも英雄です。
  私も小さい頃に学校や地域行事で浅井長政や浅井三姉妹の歴史を教わりました。

  その浅井長政と浅井三姉妹の運命を変える出来事が「姉川の合戦」です。
  大河ドラマでは2〜3分で「姉川の合戦」が終わってしまいましたのでかなり残念です。

  それで、と言う事ではないのですが「姉川の合戦跡」のレポートをさせていただきますので、
  姉川の合戦をドラマより少しだけ多く知っていただき、これから1年続く「江」のドラマを楽しんでいただければと思います。
●今、私が住んでいるところは小谷城跡より数キロ南の旧浅井町(あざいちょう)です。
  玄関から出て15分ほど歩いたところにこの看板があります。
  「姉川の合戦跡」です。

  くどいようですが浅井町は「あざいちょう」と読みます。濁点が入ります。
●この看板の上には「真柄十郎左衛門直隆」の太刀が描かれています。
  真柄直隆は朝倉家の家臣で長さ180cmの大太刀を使った
  武将として有名だそうですが、私は知りません。

  180cmの大太刀と言えば私の身長とほとんど変わりません。
  こんなの振り回してたんですね。
●姉川の合戦跡から西に1km弱ほど行った所にこの石碑が建てられています。
●最近立てられた看板はカラフルで
  とても綺麗です。

  「江」の放送が決まる数年前から
  ありましたので放送を当て込んで
  立てられたものではありません。
●秀吉の軍師であり戦国の名軍師「竹中半兵衛」のふる里など数え切れないほどあります。
  歴史レポートが本当に好評ならば続編も考えます。
   (2011/01/15)
●車で20分ほど走れば「天下分け目の関ヶ原」。
●その「賤ケ岳(しずがたけ)の合戦」で戦った毛受(めんじゅ)兄弟のお墓。
●滋賀県北部近辺は戦国時代の史跡が沢山あります。
  羽柴秀吉と柴田勝家が戦った「賤ケ岳(しずがたけ)の合戦」や。
●「浅井長政と陣田」の看板。
  画像の左が「浅井長政」の絵です。

  新しい看板はこのほかにもいくつか
  ありますので歴史レポートが好評なら
  追加する予定です。

  (追加のご要望があれば「掲示板」か
   「メール」でお知らせ下さい。)
●「血川と野村の史跡」の看板。
●新しい看板は他にもあります。
  「姉川古戦場」の看板。
●真柄直隆の絵がこちらです。
  確かに相当長い大太刀です。

  看板に「血原の大決戦」と書いてありますが、
  これは姉川の合戦後に付けられた名前だと思います。

  「血原」や「血川」の地名が今でも残っているほど
  姉川の合戦はすさまじい戦いだった様です。
  あまたの武将がここで戦いました。
●姉川の合戦の布陣です。
  北に浅井・朝倉軍、南に織田・徳川軍です。

  因みに布陣の中ほどに流れている川が「姉川」です。
  下のもう少し細い川は「妹川」です。
  正式名称は草野川で姉川の支流です。
●姉川の合戦跡の周辺にはこの様な看板がいくつか立てられています。
  古めの看板がこれ。
●石碑の後には元亀元年と記されています。
  元亀元年(げんきがんねん)は1570年ですから姉川の合戦があった年です。
  ですからこの石碑が建てられたのはもっと後のことです。
●姉川の合戦跡の別角度。
  因みに上の写真とこの写真は2010年の秋に撮ったものです。
●姉川の合戦跡の現在はこのような風景です。
  ただの河原です。
●姉川の合戦と関係ないでしょうが、この地域の田んぼにはこのような
  小さな鳥居の形をしたものが地面に刺さっています。
  ナゼ刺さっているか?理由は良く解りません。

  そのうち地元のおっちゃんや、おじいさんかおばあさんに聞いてみます。